御神紋椿の話 ―安徳天皇の恋物語―
御祭神の安徳天皇は、壇ノ浦の戦で二位の尼に抱かれて入水され、 御年わずか8歳の生涯をお果てになったと国史には記述されております。
ところが水天宮にはここで崩御なさったのではなく、官女の按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)に守られ、生きて筑後に潜幸遊ばしたという伝承があります。
筑後の豪族藤原種継は、平家の旧臣で潜幸中の天皇にお仕えしていましたが、その種継に玉江という17になる美人の娘がおりました。玉江は天皇お付の浄厚尼の薦めにより、日夜、天皇のお側に侍り、お仕えする様になります。
世を忍ぶ御座所は筑後河畔、鷺野原の千寿院という寺院で、その境内に清水の井桁に寄り添う美しい椿の花が咲いており、清水に映ってとても優雅で気高い風情をただよわせておりました。
天皇は「椿は八千代を寿ぎ、井桁は契りを宿すとかや」 ~椿の花はいつの世も優しく愛でて映え、井桁はその愛を とこしえに深く育んでゆくと言われているが、いかがなものよ~と、玉江への想いを秘めて仰せられました。浄厚尼も、ならばどうぞ玉椿をお手折りなさり、幾久しく大切になさりませと申し上げて祝福しました。こうして天皇は玉江姫と契られたとのことです。こうして、安徳天皇と玉江姫の恋物語の由縁から、椿の花が御神紋となりました。
なお、玉江姫はのちの「神子禅師尊栄」と称される皇子をお産みになられたそうですが、この伝説では天皇、27歳で崩ぜられています。玉江姫は禅寿尼と号し、先帝の霊位を丁寧に弔って生涯を終えたとのことです。